大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和5年度(2023年度)追・再試験
問4 (<旧課程>世界史B(第1問) 問4)
問題文
中国の西安周辺を観光している菅原さんが、現地のガイドと会話をしている。
ガイド:ここは華清池(かせいち)と言い、古くから知られている温泉保養地です。( イ )と、その寵愛(ちようあい)を受けていた楊貴妃がたびたび訪れたことでも有名です。
菅原:楊貴妃については、その一族が( イ )の晩年に政治の実権を握ったことを世界史の授業で学びました。
ガイド:世界史における有名な女性という点では、b 西太后も清の同治帝時代以降に実権を握りましたね。実は彼女もかつてここに滞在したことがあるのですよ。
菅原:そうですか。なぜ彼女は西安に来たのですか。
ガイド:外国との戦争の際に、一時的に西安に逃れたのです。およそ1年半後に首都に戻り、その後も以前と同様、1908年に亡くなるまで朝廷で実権を握り続けました。なお、その時期は、清朝において光緒新政と呼ばれる改革が実施された時期と重なります。
菅原:西太后というと保守的なイメージを持っていたので、意外です。おや、あの建物には銃弾の跡がありますね。
ガイド:はい。1935年に中国共産党によってc ある宣言が出されましたが、その後( ウ )の率いる部隊があの建物を襲い、そこに滞在していた蔣介石を捕らえました。銃弾の跡はその時のものです。
菅原:共産党と国民党が接近するきっかけになったあの事件の舞台は、まさにここだったのですね。
文章中の空欄( イ )の人物の治世に中国で起こった出来事について述べた文として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
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問題
大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和5年度(2023年度)追・再試験 問4(<旧課程>世界史B(第1問) 問4) (訂正依頼・報告はこちら)
中国の西安周辺を観光している菅原さんが、現地のガイドと会話をしている。
ガイド:ここは華清池(かせいち)と言い、古くから知られている温泉保養地です。( イ )と、その寵愛(ちようあい)を受けていた楊貴妃がたびたび訪れたことでも有名です。
菅原:楊貴妃については、その一族が( イ )の晩年に政治の実権を握ったことを世界史の授業で学びました。
ガイド:世界史における有名な女性という点では、b 西太后も清の同治帝時代以降に実権を握りましたね。実は彼女もかつてここに滞在したことがあるのですよ。
菅原:そうですか。なぜ彼女は西安に来たのですか。
ガイド:外国との戦争の際に、一時的に西安に逃れたのです。およそ1年半後に首都に戻り、その後も以前と同様、1908年に亡くなるまで朝廷で実権を握り続けました。なお、その時期は、清朝において光緒新政と呼ばれる改革が実施された時期と重なります。
菅原:西太后というと保守的なイメージを持っていたので、意外です。おや、あの建物には銃弾の跡がありますね。
ガイド:はい。1935年に中国共産党によってc ある宣言が出されましたが、その後( ウ )の率いる部隊があの建物を襲い、そこに滞在していた蔣介石を捕らえました。銃弾の跡はその時のものです。
菅原:共産党と国民党が接近するきっかけになったあの事件の舞台は、まさにここだったのですね。
文章中の空欄( イ )の人物の治世に中国で起こった出来事について述べた文として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
- 府兵制に代わって募兵制が採用された。
- 塩の密売人の黄巣が反乱を起こした。
- 焚書・坑儒が行われた。
- 新法党と旧法党との対立が起こった。
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この過去問の解説 (2件)
01
玄宗について確認します。
玄宗は712年、唐王朝の中期に即位した皇帝です。
則天武后亡き後に実権を握っていた中宗の皇后である韋后を排除し、
その後に皇帝として即位しました。
玄宗の治世の前半は、開元の治とよばれ、太宗の貞観の治と並び称される繁栄の時代
とされました。
しかし、晩年は寵姫である楊貴妃を溺愛して政治への関心が薄れました。
やがて、楊貴妃や外戚となった楊氏に反発した節度使安禄山が起こした反乱(安史の乱)の発生を招きます。
玄宗の時代は、軍制が大きく変化した時代でもありました。
均田制が崩壊したため、均田農民を兵士とする府兵制が機能しなくなったからです。
そのため、749年に府兵制が完全に廃止され、募兵制に移行します。
適当
募兵制は国が給与を払って兵士を集める仕組みで、傭兵制度とみなせます。
不適
黄巣の乱は玄宗の時代から100年以上のちの875年に起きた反乱です。
黄巣の乱は衰退していた唐に大打撃を与え、907年の唐の滅亡の遠因となります。
不適
焚書・坑儒は秦の始皇帝の政策であるため不適。
不適
新法党と旧法党はの対立は北宋時代の対立です。
宰相となった王安石が出した新法に賛成するか否かで意見が対立しました。
意見の対立を収められなかった王安石は責任を取る形で宰相を辞任したため、
改革は失敗に終わりました。
中国史でよく出題される国・皇帝と政策を一致させる問題です。
ただし、玄宗と府兵制の廃止は別々に学習するため、
記憶が結びつきにくいかもしれません。
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02
最も適当なのは、
「府兵制に代わって募兵制が採用された。」 です。
玄宗皇帝(在位8世紀前半)の時代、均田制・府兵制のゆらぎから兵と財政を確保するために傭兵中心の募兵制へ移行しました。
これが安禄山ら節度使の台頭にもつながります。
玄宗期に府兵制の維持が困難となり、兵を給与で募る制度へ転換しました。
楊貴妃と安禄山が登場する背景とも重なります。
黄巣の乱は9世紀後半(唐末)です。
玄宗の約120年後で時代が合いません。
これは前3世紀、秦の始皇帝の政策で、唐とはまったく別の王朝です。
11世紀後半、北宋で王安石の改革をめぐって起きた政治対立であり、玄宗の時代ではありません。
玄宗期は財政悪化→募兵制への転換→節度使の軍事力増大という流れがあり、これが安禄山らの反乱を招きました。
楊貴妃が寵愛を受けたのもこの時代で、華清池のエピソードはその象徴といえます。
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