大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和7年度(2025年度)本試験
問59 (歴史総合,日本史探究(第5問) 問4)

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問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和7年度(2025年度)本試験 問59(歴史総合,日本史探究(第5問) 問4) (訂正依頼・報告はこちら)

日本史探究の授業で、田中さんは「近世の村」について考察した。次の文章を読み、後の問いに答えよ。(資料には、省略したり、改めたりしたところがある。)

田中さんは、幕府領の村々の石高と年貢高の推移を示すグラフを用意し、それを読み取って調べたこと・考えたことをメモ2にまとめた。

メモ2
・幕府領の石高は1665年から1745年にかけて増加するが、それ以降は横ばいか、やや減少する。
d幕府は村や百姓を維持するための諸政策を実施することによって、石高や年貢高の減少を防ごうとした。
・そうした中でe1785年頃に石高・年貢高が一時的に減少しているのはなぜだろうか?

田中さんは下線部eの疑問について、幕府領の鎌原(かんばら)村に関する資料を見つけて、その内容をメモ3にまとめた。メモ3に関して述べた文あ~えについて、正しいものの組合せを、後の選択肢のうちから一つ選べ。

メモ3
■天明3(1783)年の幕府役人による被害状況調査報告書
・上野国吾妻(あがつま)郡鎌原(かんばら)村では、村高が332石余だったが、火山の噴火による泥砂などが流れ込み324石余の耕地が荒れてしまい耕作できなくなった。
・村人597人中、生き残ったのは131人だった。その内の38人は他村に奉公に出ていて、残り93人は他村の名主が世話している状態である。

■慶応2(1866)年の鎌原村「村高家数人別書上帳」
・鎌原村の村高は変わらず332石余だが、その内、205石余は天明年の災害によって荒地になったままである。天明年以降、荒地は年貢賦課の対象外となっている。
・村の人口は199人である。男106人の内、14人は他所へ出稼ぎに出ている。

あ  鎌原村の被災は浅間山の噴火によるもので、その被害は甚大であった。
い  鎌原村では、被災後も納めなければならない年貢は減らなかった。
う  鎌原村の耕地・人口は、幕末期には被災前の状態に回復した。
え  鎌原村の耕地・人口は、幕末期になっても被災前の状態には回復しなかった。
問題文の画像
  • あ・う
  • あ・え
  • い・う
  • い・え

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この過去問の解説 (1件)

01

この問題は、メモ3の数字をそのまま比べると判断しやすいです。

・1783年の被害は、耕地の大部分が荒れることと、人口が大きく減ることで確認できます。

・1866年になっても、荒地が残り続け、人口も被災前に戻っていないため、回復したとは言えません。

また、メモ2の「1785年ごろに石高・年貢高が一時的に減少した理由」は、こうした天明期の災害で耕作できる土地が減り、年貢の対象から外れる土地も出たことが関係している、と考えられます。

選択肢2. あ・え

正解です。

 

文あ

メモ3には、火山の噴火による泥砂が流れ込み、324石余の耕地が荒れて耕作できなくなったとあります。
また、村人597人中、生き残りが131人と書かれており、被害が非常に大きいことも分かります。

 

文え

1866年になっても荒地が大きく残り、人口も597人→199人のままです。
そのため、「回復しなかった」という内容がメモ3と一致します。

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