共通テスト(地理歴史) 過去問
令和8年度(2026年度)追・再試験
問37 (歴史総合,日本史探究(第1問) 問5)
問題文
歴史総合の授業で、「歴史における旅とその役割」という主題を設定し、探究した。次の文章を読み、後の問いに答えよ。(資料には、省略したり、改めたりしたところがある。)
博物館での見学を終えたのち、2班は指導者の旅に着目し、先生と感想を述べ合っている。
樋口:展示を見学して、宗教上の聖地に旅をすることにより、多くの人々が結び付いていたことが分かりました。
先生:そうですね。他方で歴史上、特定の個人が旅をすることによって、地域や人々を結び付けようとする動きもあります。
馬島:私は、20世紀初頭にユーラシア世界を旅したイスラーム指導者、イブラヒムに興味を持ち、経路を地図にしてみました。イブラヒムは、ムスリムが連帯することで列強に対抗できると考え、ユーラシア各地に赴きました。
樋口:私は、チベットの宗教的、政治的指導者であるa ダライ=ラマ13世が、1904年から1913年にかけて、各地を移動していることに着目しました。この旅は、イギリス、ロシア、清など、大国の思惑に翻弄されるものでした。しかし、チベットに戻ったダライ=ラマ13世は、1913年に、チベット仏教信仰を共有するモンゴルと相互に独立を確認する条約を結び、のちに独立宣言と称される布告を出すに至ります。旅を通じて、ダライ=ラマ13世はチベットの独立の必要性を見いだしたのではないでしょうか。
先生:指導者やb 王族・皇族の旅は、その時の外交関係と関連していることがあります。それを示す歴史的事例を考えてみましょう。
下線部bに関連して、馬島さんは、王族・皇族による訪問の事例を見つけた。事例あ~えを比較した文として最も適当なものを、後の選択肢のうちから一つ選べ。
あ 英仏協商締結の前年に、イギリス国王によるフランス訪問があった。
い 第3次日韓協約締結の年に、日本の皇太子による韓国訪問があった。
う サライェヴォ事件のきっかけとなる、オーストリアの帝位継承者によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ訪問があった。
え 四カ国条約締結の前年に、日本の皇太子によるイギリス訪問があった。
博物館での見学を終えたのち、2班は指導者の旅に着目し、先生と感想を述べ合っている。
樋口:展示を見学して、宗教上の聖地に旅をすることにより、多くの人々が結び付いていたことが分かりました。
先生:そうですね。他方で歴史上、特定の個人が旅をすることによって、地域や人々を結び付けようとする動きもあります。
馬島:私は、20世紀初頭にユーラシア世界を旅したイスラーム指導者、イブラヒムに興味を持ち、経路を地図にしてみました。イブラヒムは、ムスリムが連帯することで列強に対抗できると考え、ユーラシア各地に赴きました。
樋口:私は、チベットの宗教的、政治的指導者であるa ダライ=ラマ13世が、1904年から1913年にかけて、各地を移動していることに着目しました。この旅は、イギリス、ロシア、清など、大国の思惑に翻弄されるものでした。しかし、チベットに戻ったダライ=ラマ13世は、1913年に、チベット仏教信仰を共有するモンゴルと相互に独立を確認する条約を結び、のちに独立宣言と称される布告を出すに至ります。旅を通じて、ダライ=ラマ13世はチベットの独立の必要性を見いだしたのではないでしょうか。
先生:指導者やb 王族・皇族の旅は、その時の外交関係と関連していることがあります。それを示す歴史的事例を考えてみましょう。
下線部bに関連して、馬島さんは、王族・皇族による訪問の事例を見つけた。事例あ~えを比較した文として最も適当なものを、後の選択肢のうちから一つ選べ。
あ 英仏協商締結の前年に、イギリス国王によるフランス訪問があった。
い 第3次日韓協約締結の年に、日本の皇太子による韓国訪問があった。
う サライェヴォ事件のきっかけとなる、オーストリアの帝位継承者によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ訪問があった。
え 四カ国条約締結の前年に、日本の皇太子によるイギリス訪問があった。
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問題
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共通テスト(地理歴史)試験 令和8年度(2026年度)追・再試験 問37(歴史総合,日本史探究(第1問) 問5) (訂正依頼・報告はこちら)
歴史総合の授業で、「歴史における旅とその役割」という主題を設定し、探究した。次の文章を読み、後の問いに答えよ。(資料には、省略したり、改めたりしたところがある。)
博物館での見学を終えたのち、2班は指導者の旅に着目し、先生と感想を述べ合っている。
樋口:展示を見学して、宗教上の聖地に旅をすることにより、多くの人々が結び付いていたことが分かりました。
先生:そうですね。他方で歴史上、特定の個人が旅をすることによって、地域や人々を結び付けようとする動きもあります。
馬島:私は、20世紀初頭にユーラシア世界を旅したイスラーム指導者、イブラヒムに興味を持ち、経路を地図にしてみました。イブラヒムは、ムスリムが連帯することで列強に対抗できると考え、ユーラシア各地に赴きました。
樋口:私は、チベットの宗教的、政治的指導者であるa ダライ=ラマ13世が、1904年から1913年にかけて、各地を移動していることに着目しました。この旅は、イギリス、ロシア、清など、大国の思惑に翻弄されるものでした。しかし、チベットに戻ったダライ=ラマ13世は、1913年に、チベット仏教信仰を共有するモンゴルと相互に独立を確認する条約を結び、のちに独立宣言と称される布告を出すに至ります。旅を通じて、ダライ=ラマ13世はチベットの独立の必要性を見いだしたのではないでしょうか。
先生:指導者やb 王族・皇族の旅は、その時の外交関係と関連していることがあります。それを示す歴史的事例を考えてみましょう。
下線部bに関連して、馬島さんは、王族・皇族による訪問の事例を見つけた。事例あ~えを比較した文として最も適当なものを、後の選択肢のうちから一つ選べ。
あ 英仏協商締結の前年に、イギリス国王によるフランス訪問があった。
い 第3次日韓協約締結の年に、日本の皇太子による韓国訪問があった。
う サライェヴォ事件のきっかけとなる、オーストリアの帝位継承者によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ訪問があった。
え 四カ国条約締結の前年に、日本の皇太子によるイギリス訪問があった。
博物館での見学を終えたのち、2班は指導者の旅に着目し、先生と感想を述べ合っている。
樋口:展示を見学して、宗教上の聖地に旅をすることにより、多くの人々が結び付いていたことが分かりました。
先生:そうですね。他方で歴史上、特定の個人が旅をすることによって、地域や人々を結び付けようとする動きもあります。
馬島:私は、20世紀初頭にユーラシア世界を旅したイスラーム指導者、イブラヒムに興味を持ち、経路を地図にしてみました。イブラヒムは、ムスリムが連帯することで列強に対抗できると考え、ユーラシア各地に赴きました。
樋口:私は、チベットの宗教的、政治的指導者であるa ダライ=ラマ13世が、1904年から1913年にかけて、各地を移動していることに着目しました。この旅は、イギリス、ロシア、清など、大国の思惑に翻弄されるものでした。しかし、チベットに戻ったダライ=ラマ13世は、1913年に、チベット仏教信仰を共有するモンゴルと相互に独立を確認する条約を結び、のちに独立宣言と称される布告を出すに至ります。旅を通じて、ダライ=ラマ13世はチベットの独立の必要性を見いだしたのではないでしょうか。
先生:指導者やb 王族・皇族の旅は、その時の外交関係と関連していることがあります。それを示す歴史的事例を考えてみましょう。
下線部bに関連して、馬島さんは、王族・皇族による訪問の事例を見つけた。事例あ~えを比較した文として最も適当なものを、後の選択肢のうちから一つ選べ。
あ 英仏協商締結の前年に、イギリス国王によるフランス訪問があった。
い 第3次日韓協約締結の年に、日本の皇太子による韓国訪問があった。
う サライェヴォ事件のきっかけとなる、オーストリアの帝位継承者によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ訪問があった。
え 四カ国条約締結の前年に、日本の皇太子によるイギリス訪問があった。
- あ・うの事例は、訪問した側の国と訪問先とが、ドイツを抑えるために協調したという点で共通している。
- あ・えの事例は、訪問した側の国と訪問先とが、王族・皇族の訪問の時点で同盟を結んでいたという点で共通している。
- い・うの事例は、訪問先で、訪問した側の国への反発が起こっていたという点で共通している。
- い・えの事例は、両大戦間期の出来事であったという点で共通している。
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この過去問の解説 (3件)
01
王族・皇族による訪問の事例から、比較を行う問題です。
誤った選択肢です。
「あ」の英仏協商は、当時勢いを増していたドイツに対抗するためのものです。しかし、「う」のボスニア・ヘルツェゴヴィナは、オーストリアが併合した領域です。また、オーストリアはドイツと三国同盟を結んでいたため、ドイツを抑えるために協調したとはいえません。
誤った選択肢です。
「あ」の英仏協商では、イギリス国王のフランス訪問は同盟締結の前年に行われています。また、日本は1902年に日英同盟を締結しているため、四ヶ国条約(1921年)年よりも早く同盟を結んでいたといえます。
正しい選択肢です。
「い」が行われた年には、第三次日韓協約が結ばれ、日本は韓国の内政権を掌握して、軍の大部分を解散させました。こうした保護国化の動きに抵抗して、韓国では義兵運動など、日本への反発が起こっていました。
「う」の訪問先のボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、オーストリアの併合に対して、セルビア系の住民が強く反発していました。この反発が、のちのサライェヴォ事件につながります。
誤った選択肢です。
「え」の四ヶ国条約は1921年のワシントン会議で結ばれたもので、戦間期の出来事といえますが、「い」の事例は、1907年の出来事です。
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02
あ 英仏協商締結の前年に、イギリス国王によるフランス訪問があった。
英仏協商は、1904年に締結されました。イギリス国王によるフランス訪問は、1903年の出来事です。
い 第3次日韓協約締結の年に、日本の皇太子による韓国訪問があった。
第3次日韓協約は、1907年に締結されました。
う サライェヴォ事件のきっかけとなる、オーストリアの帝位継承者によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ訪問があった。
サライェヴォ事件は、1914年に起こりました。オーストリアの帝位継承者が自国のボスニア・ヘルツェゴヴィナを訪問した時に、セルビア人によって暗殺された事件です。
え 四カ国条約締結の前年に、日本の皇太子によるイギリス訪問があった。
四カ国条約は、1921年に締結されました。、日本の皇太子によるイギリス訪問も、1921年です。
英仏協商はドイツを抑える目的がありました。
オーストリアの帝位継承者によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ訪問は、軍事演習の視察のためです。
この選択肢は誤りです。
1903年に、英仏間に同盟関係はありません。
日英間には、1902年に日英同盟が締結されています。
この選択肢は誤りです。
正しい選択肢です。
第3次日韓協約締結の前の同年に、ハーグ密使事件が発生しています。
1908年にオーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したことに、セルビアは強く反発していました。
第3次日韓協約は1907年に締結されているので、この選択肢は誤りです。
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03
この問題では、王族・皇族が訪問した年代だけでなく、そのとき訪問先と訪問した側の国がどのような関係にあったのかを見ることが大切です。
「あ」では、1903年にイギリス国王エドワード7世がフランスを訪問し、その翌年の1904年に英仏協商が成立しました。
この訪問は、イギリスとフランスの関係改善を進める一つのきっかけとなりました。
しかし、「う」のボスニア・ヘルツェゴヴィナは、当時オーストリア=ハンガリー帝国の支配下にありました。
また、オーストリア=ハンガリー帝国はドイツと三国同盟を結んでいた側です。
そのため、ドイツを抑えるために協調したという共通点はありません。
「あ」の1903年の時点では、イギリスとフランスの間に同盟は結ばれていませんでした。
英仏協商が成立したのは1904年で、国王の訪問はその前年です。
さらに、英仏協商自体も正式な軍事同盟として結ばれたものではありません。
一方、日本とイギリスは1902年に日英同盟を結んでいます。
したがって、あ・えの両方が「訪問時に同盟関係にあった」とはいえません。
正解です。
「い」は1907年、日本の皇太子が韓国を訪問した事例です。
この年には第3次日韓協約が結ばれ、韓国軍の解散などに対して日本への反発や義兵による抵抗が広がっていました。
日本の皇太子の韓国訪問も、こうした緊張が続いていた時期に行われています。
「う」は1914年、オーストリア帝位継承者フランツ=フェルディナントがボスニア・ヘルツェゴヴィナを訪れた事例です。
この地域ではオーストリア=ハンガリー帝国の支配に反発する民族主義の動きがあり、サライェヴォでフランツ=フェルディナント夫妻が暗殺されました。
このため、訪問先で訪問した側の国への反発が起こっていたという点で共通しています。
両大戦間期とは、第一次世界大戦が終わった1918年から第二次世界大戦が始まる1939年までの時期を指します。
しかし、「い」は1907年の出来事であり、第一次世界大戦が始まった1914年よりも前です。
そのため、い・えの両方を両大戦間期の出来事とすることはできません。
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